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生まれついての短距離馬というにふさわしい牝馬。
スター不在の時代に咲いた婀娜花というイメージが付きまとう。 「せめてマイルを」は知るだけの力がなければ牝馬クラシックの最短距離桜花賞さえ狙えないという陣営の焦りをよそに、マイルに対する対応能力をみせる。 これで桜花賞が狙えると安堵する陣営。 この時点でのタカラスチールのライバルはエルプスという牝馬、ただ、三戦三敗という戦績では主客が逆に語られるべきなのかもしれない。 そして訪れた挫折。 スタートで枠に足をぶつけ、その影響をひきずり、馬群に沈んでいくタカラスチール。 陣営の落胆は激しかった。 その後もいわゆる「勝ちがむかない」状況が続く。 当時のマイル戦線にはニホンピロウィナーが当代最強との呼び声も高かった。 陣営は彼の影を踏むことを避け、短距離戦で細々と実績と経験をつんでいく道を選んだ。 安田記念やマイルCSなどで、幾度かGIのタイトルを勝ち取ろうとしたがなしえず、この馬もここまでかという諦めムードが漂った頃。 前走から乗り代わった「十一人目の男」田島騎手がタカラスチールに最高の瞬間を贈った。 マイルCS制覇。 それは、日本で始めて牝牡混合GIを制した牝馬の誕生だった。 ところがそれ以降、タカラスチールはぱったりと勝ち運に見放され、そのまま繁殖牝馬としての生活を始めることになる。 そして二度の流産。 タカラスチールの関係者が期待して臨んだダンシンググレーヴとの交配、着床。 そして、8月15日、急激な衰弱の末、死亡という、波乱に満ちた繁殖生活。 解剖の結果死因は、卵巣に巣食った腫瘍だと判断された。 PR |
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この11月1日もそうだった。 関係者の思いも様々だった。 レースは凄まじい展開になった。 3コーナーを回る頃には、早くも1頭脱落。 当時の府中は、直線500m。 まさに、この日がそうだった。 矢のような伸びで追い込んでくる栗毛の馬体。 1分58秒6。 「醜いアヒルの子が、実は白鳥だった。そんな感じかな」 だが、彼のGⅠ戴冠に最も狂喜乱舞したのは・・・育成牧場の面々。
当時の映像を観返してみると、直線に向いた直後、外に持ち出された辺り。 素直じゃ無い彼のことだから、聞いても答えてはくれないだろうな。
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菊花賞トライアルの「セントライト記念」にもその名を残す日本競馬史上最初の三冠馬、セントライトです。
当時の競馬は、今とは比べ物にならないくらいのハードな条件で戦っていました。 競馬場の整備が行き届かないのは当たり前、重馬場になるととことん重い。 斤量もひどく厳しく、菊花賞を勝ったセントライトがハンデキャップ戦で背負わされようとしたのはなんと72kg! 当時は横浜に競馬場があり、府中から横浜への移動は、馬が大綱街道を歩いて移動したそうです。 のんびりというか、馬が丈夫な時代だったんですねえ。 そういう条件で三冠達成したことはやはり凄いと思えます。 |
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かわいそうな馬が2頭いたレースだった」 このフレーズを聞いて、あなたはいつのレースを思い浮かべるだろうか。 今回の主役は、2頭いる。2頭は全く別の道を歩み、たった1度だけ出会い、そして2度と交錯することは無かった。もっと言えば、本来ならその舞台で彼らが、いやこのレースの全ての出走馬が、この場所に立つはずでは無かった。 1頭は黒鹿毛、そしてもう1頭は鹿毛だった。彼らは別々の国で生を受け、黒鹿毛の方が1年と少し早く誕生した。だから、まずは黒鹿毛の彼のことから話そう。 黒鹿毛の彼は、小柄だった。だけど、細く見えるくらいの時の方が走った。大物食い。ナタの斬れ味。刺客。そんな形容詞がピッタリだった。同期の2冠馬を食ったあの日から、苦難と背中合わせの栄光の日々が始まった。 そもそも彼は、旧7歳まで走らなくても良いはずだった。GⅠを2つ勝った馬に、種牡馬としての引き合いが無いはずがなかった。しかし夏が過ぎ、秋が来て、彼の成績が振るわなくなると、その話は立ち消えになっていた。 彼はきっと、気持ちで走る馬だったのだろう。長距離砲でありながら、休み明けのレースで惨敗したことは無かった。2歳下の3冠馬が圧勝した有馬記念では、3着に飛び込んで関東馬の意地を見せた。 デビュー前から、黒鹿毛の彼以上に大きな期待をかけられていたのが、今回のもう1頭の主役。生まれはアメリカ。調教師が惚れ込んだ種牡馬の仔。やや大きめの、垢抜けた鹿毛の馬体。目立った弱点と言えば、脚元のモヤモヤくらい。しかし、その弱点と大きめの馬体が彼を苦しめた。 新馬からの2連勝は、いずれもダートだった。朝日杯に出そうと思えば出せる時期だった。だが、彼の脚元はまだまだ固まっていなかった。 復帰したのは、夏、というよりは残暑の新潟。レース当日、9月の日本海を台風が縦断した。新潟は早々に月曜順延が決定。強行した函館は暴風雨に見舞われた。 1ヶ月に1走のペースで、復帰後7戦3勝。オープンでのメドが立ったその矢先、また脚元が悲鳴を上げた。重症だった。先の見えない日々。それでも調教師は、スタッフは諦めなかった。 そして、2頭は年を越した。半月後、大地が裂けた。大きく裂けた。戦後最大級の被害。あまりにも多くの傷跡が残った。 阪神競馬場で6月に行なわれるはずだったグランプリは「震災復興支援競走」と銘打たれ、京都競馬場で行なわれることになった。
2ヵ月後。鹿毛馬は13ヶ月ぶりのレースを楽勝してみせた。鞍上には関西のいぶし銀・村本善之がいた。戦前は半信半疑だったというテン乗りの村本。この勝利で村本の中に芽生えた「もしかしたら」という思い。 村本は、どちらかと言えば地味な騎手であった。その確かな腕前は誰もが認めていたが、無口で朴訥とした男だった。20数年の騎手生活の末に訪れた出会い。村本の中で、何かが変わろうとしていた。 1ヵ月後。黒鹿毛馬は勝った。彼にとって、2年越しの天皇楯。3つめのGⅠ。京都長距離3戦3勝。過去のレースとの決定的な違い・・・それは「自分との戦い」だったこと。死力を尽くした3角先頭の奇襲。 3000m以上の平地GⅠが行なわれるのは、日本では京都競馬場のみ。彼が3つのGⅠ勝ち全てを京都で挙げているという事実。彼は生粋のステイヤーだった。ところが、それ故に彼は走り続けるしかなかった。天皇賞2勝目を挙げてもなお、彼に吉報は届かなかった。 3週間後。あの鹿毛馬は初めて重賞を勝った。復帰から1ヵ月半、この日が早4走目。使い詰めだった。だが、それは彼の脚元の具合が落ち着いていて、ようやく能力を出せる状態になったということの証明でもあった。 京都で行なわれるグランプリまで、あと3週間。 人馬ともに自信を持っていたのは、鹿毛馬の方だった。無口な村本が「負ける気がしない」と言い切ったとまで伝えられている。強行軍は百も承知だった。だが、何よりも初重賞制覇の完璧な内容が、大きな自信となっていた。 一方、黒鹿毛馬の陣営は悩んでいた。死に物狂いでもぎ取った天皇楯、しかしその代償は大きかった。気持ちで走るはずの彼の背中が、凋んで見えた。しかし、いくつもの事実が陣営の背中を押した。 ファン投票1位。京都の2200mという条件。スピード偏重とも言える時流の中で、彼がスピードへの適応力を示せていない、という声、声、声。 そして、第36回グランプリの日がやって来た。 栗毛の弾丸を倒して掴んだ王座。芦毛の名優を倒して掴んだ栄光。数え切れぬほどの苦難。全てを共に味わってきた騎手・的場均は、パドックで跨った次の瞬間、とある覚悟を決めた。 村本の自信と、的場の不安。2人の騎手の思いはそのまま、レース展開となって現れた。淀み無いペースの中、スイスイと3番手を追走する鹿毛馬。一方、いつもより後ろでの追走となった黒鹿毛馬。 3コーナーの坂の上り。次々と駆け抜けていく17頭。そして、坂の下り・・・ 冒頭のフレーズは、こんなふうに続いている。 「かわいそうな馬が2頭いたレースだった 1頭は ライスシャワー (中略) もう1頭は ダンツシアトル 屈腱炎を乗り越えて やっとGⅠを勝ったのに あのレースは “ライスシャワーが死んだ宝塚記念” として 語り継がれてしまう それも また 運命だろうか」 的場は、なきがらが納められた馬運車を敬礼で見送った。あまりにも衝撃的なシーンを目の当たりにした人々は、JRAに抗議した。雨上がりの芝でマークされた日本レコード。類稀なる超高速馬場。人々は、悲劇の原因をそこに求めたのである。 そして、2分10秒2でグランプリを制したのが、あの鹿毛馬・・・ダンツシアトルだった。 2頭にとって、何より不幸だったこと。それは、ライスシャワーのみならず、ダンツシアトルもその後2度とレースに出られなくなってしまったこと。最大の目標と位置付けていたジャパンカップはおろか、自らの走りで「影」を振り払う機会は、ついに巡って来なかったのである。 「秋の大きいところは全部獲れる、と思った」ダンツシアトル故障の知らせを聞き、調教師に食い下がったという村本善之は、後にこう振り返ってみせたという。敢えて最後に1つだけ付け加えるならば、現在もダンツシアトルは、九州の地で幸せに暮らしている。それ以上の言葉は、要らないと思う。 ライスシャワー 1989年3月5日誕生 1995年6月4日死亡 戦績25戦6勝 主な勝ち鞍:菊花賞、天皇賞・春2回(以上GⅠ) 日経賞(GⅡ) ダンツシアトル 1990年5月13日誕生 戦績14戦8勝 主な勝ち鞍:宝塚記念(GⅠ) 京阪杯(GⅢ) |
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