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かわいそうな馬が2頭いたレースだった」 このフレーズを聞いて、あなたはいつのレースを思い浮かべるだろうか。 今回の主役は、2頭いる。2頭は全く別の道を歩み、たった1度だけ出会い、そして2度と交錯することは無かった。もっと言えば、本来ならその舞台で彼らが、いやこのレースの全ての出走馬が、この場所に立つはずでは無かった。 1頭は黒鹿毛、そしてもう1頭は鹿毛だった。彼らは別々の国で生を受け、黒鹿毛の方が1年と少し早く誕生した。だから、まずは黒鹿毛の彼のことから話そう。 黒鹿毛の彼は、小柄だった。だけど、細く見えるくらいの時の方が走った。大物食い。ナタの斬れ味。刺客。そんな形容詞がピッタリだった。同期の2冠馬を食ったあの日から、苦難と背中合わせの栄光の日々が始まった。 そもそも彼は、旧7歳まで走らなくても良いはずだった。GⅠを2つ勝った馬に、種牡馬としての引き合いが無いはずがなかった。しかし夏が過ぎ、秋が来て、彼の成績が振るわなくなると、その話は立ち消えになっていた。 彼はきっと、気持ちで走る馬だったのだろう。長距離砲でありながら、休み明けのレースで惨敗したことは無かった。2歳下の3冠馬が圧勝した有馬記念では、3着に飛び込んで関東馬の意地を見せた。 デビュー前から、黒鹿毛の彼以上に大きな期待をかけられていたのが、今回のもう1頭の主役。生まれはアメリカ。調教師が惚れ込んだ種牡馬の仔。やや大きめの、垢抜けた鹿毛の馬体。目立った弱点と言えば、脚元のモヤモヤくらい。しかし、その弱点と大きめの馬体が彼を苦しめた。 新馬からの2連勝は、いずれもダートだった。朝日杯に出そうと思えば出せる時期だった。だが、彼の脚元はまだまだ固まっていなかった。 復帰したのは、夏、というよりは残暑の新潟。レース当日、9月の日本海を台風が縦断した。新潟は早々に月曜順延が決定。強行した函館は暴風雨に見舞われた。 1ヶ月に1走のペースで、復帰後7戦3勝。オープンでのメドが立ったその矢先、また脚元が悲鳴を上げた。重症だった。先の見えない日々。それでも調教師は、スタッフは諦めなかった。 そして、2頭は年を越した。半月後、大地が裂けた。大きく裂けた。戦後最大級の被害。あまりにも多くの傷跡が残った。 阪神競馬場で6月に行なわれるはずだったグランプリは「震災復興支援競走」と銘打たれ、京都競馬場で行なわれることになった。
2ヵ月後。鹿毛馬は13ヶ月ぶりのレースを楽勝してみせた。鞍上には関西のいぶし銀・村本善之がいた。戦前は半信半疑だったというテン乗りの村本。この勝利で村本の中に芽生えた「もしかしたら」という思い。 村本は、どちらかと言えば地味な騎手であった。その確かな腕前は誰もが認めていたが、無口で朴訥とした男だった。20数年の騎手生活の末に訪れた出会い。村本の中で、何かが変わろうとしていた。 1ヵ月後。黒鹿毛馬は勝った。彼にとって、2年越しの天皇楯。3つめのGⅠ。京都長距離3戦3勝。過去のレースとの決定的な違い・・・それは「自分との戦い」だったこと。死力を尽くした3角先頭の奇襲。 3000m以上の平地GⅠが行なわれるのは、日本では京都競馬場のみ。彼が3つのGⅠ勝ち全てを京都で挙げているという事実。彼は生粋のステイヤーだった。ところが、それ故に彼は走り続けるしかなかった。天皇賞2勝目を挙げてもなお、彼に吉報は届かなかった。 3週間後。あの鹿毛馬は初めて重賞を勝った。復帰から1ヵ月半、この日が早4走目。使い詰めだった。だが、それは彼の脚元の具合が落ち着いていて、ようやく能力を出せる状態になったということの証明でもあった。 京都で行なわれるグランプリまで、あと3週間。 人馬ともに自信を持っていたのは、鹿毛馬の方だった。無口な村本が「負ける気がしない」と言い切ったとまで伝えられている。強行軍は百も承知だった。だが、何よりも初重賞制覇の完璧な内容が、大きな自信となっていた。 一方、黒鹿毛馬の陣営は悩んでいた。死に物狂いでもぎ取った天皇楯、しかしその代償は大きかった。気持ちで走るはずの彼の背中が、凋んで見えた。しかし、いくつもの事実が陣営の背中を押した。 ファン投票1位。京都の2200mという条件。スピード偏重とも言える時流の中で、彼がスピードへの適応力を示せていない、という声、声、声。 そして、第36回グランプリの日がやって来た。 栗毛の弾丸を倒して掴んだ王座。芦毛の名優を倒して掴んだ栄光。数え切れぬほどの苦難。全てを共に味わってきた騎手・的場均は、パドックで跨った次の瞬間、とある覚悟を決めた。 村本の自信と、的場の不安。2人の騎手の思いはそのまま、レース展開となって現れた。淀み無いペースの中、スイスイと3番手を追走する鹿毛馬。一方、いつもより後ろでの追走となった黒鹿毛馬。 3コーナーの坂の上り。次々と駆け抜けていく17頭。そして、坂の下り・・・ 冒頭のフレーズは、こんなふうに続いている。 「かわいそうな馬が2頭いたレースだった 1頭は ライスシャワー (中略) もう1頭は ダンツシアトル 屈腱炎を乗り越えて やっとGⅠを勝ったのに あのレースは “ライスシャワーが死んだ宝塚記念” として 語り継がれてしまう それも また 運命だろうか」 的場は、なきがらが納められた馬運車を敬礼で見送った。あまりにも衝撃的なシーンを目の当たりにした人々は、JRAに抗議した。雨上がりの芝でマークされた日本レコード。類稀なる超高速馬場。人々は、悲劇の原因をそこに求めたのである。 そして、2分10秒2でグランプリを制したのが、あの鹿毛馬・・・ダンツシアトルだった。 2頭にとって、何より不幸だったこと。それは、ライスシャワーのみならず、ダンツシアトルもその後2度とレースに出られなくなってしまったこと。最大の目標と位置付けていたジャパンカップはおろか、自らの走りで「影」を振り払う機会は、ついに巡って来なかったのである。 「秋の大きいところは全部獲れる、と思った」ダンツシアトル故障の知らせを聞き、調教師に食い下がったという村本善之は、後にこう振り返ってみせたという。敢えて最後に1つだけ付け加えるならば、現在もダンツシアトルは、九州の地で幸せに暮らしている。それ以上の言葉は、要らないと思う。 ライスシャワー 1989年3月5日誕生 1995年6月4日死亡 戦績25戦6勝 主な勝ち鞍:菊花賞、天皇賞・春2回(以上GⅠ) 日経賞(GⅡ) ダンツシアトル 1990年5月13日誕生 戦績14戦8勝 主な勝ち鞍:宝塚記念(GⅠ) 京阪杯(GⅢ) PR |
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